嘘だと言うそれから逃げたかった
038:あなたの撒いた呪縛に捕らわれる、それは何て甘美な罠
派手な電飾の広告灯は遠いはずなのにどう屈折してくるのか、葛の部屋には一筋の道が奔る。紅から碧色、蒼に白と瞬く目に色が変わる。喧騒さえも聞こえてきそうだ。繁華街の路地裏は真っ当性を失くし、住人もまたそれを受けいれている。肩や脚もあらわな女性がくねるように踊り、抱擁とキスと暴力沙汰が横に並んだ。コーヒー豆を商っていたかと思えは規格外の煙草を売り、揚げ菓子や果物も店頭に並んだ。無論非合法の商いであるから手入れがあれば頭上を覆う幌に荷物を包んで逃げる。取り締まりが消えてからいつの間にかまた集まりだして店を開く。路地裏とはそういった場所だ。
ズボンを引っかけただけの半裸の葛の姿は珍しい。常日頃から釦は首まで留めてタイを締める。シャツは真白で糊が利き、ズボンもきちんと折り目がついている。その葛の乱れは明らかにそれまで葛が何をしていたかを暗示する。窓の方へ体を預けている葛の背中が葵には見えた。広くて白い背。紅い蚯蚓腫れが己がつけたものであると知りながらそれに恥じ入るほど、葵も深窓の姫君ではない。なぁんだ結構深く抉った気がしたんだけどな、とは人を食う。
「なに見てんの?」
窓硝子には卓上灯の灯った部屋の様子が映されるばかりだ。気付けば雨音がして窓硝子がぽつぽつと濡れていくのが煌めきの乱反射で判る。いつもはきちんと整えられている葛の黒髪が乱れている。優秀さを示すような白く秀でた額と通った鼻梁。眉目秀麗とはまさに葛のことだと葵は思う。しかも見てくれだけの馬鹿ではない。
葵と葛の間に本来情はない。あっては困る。葵と葛の二人がこうして共暮らしを始めるきっかけは二人の力など微塵も及ばない上層部による決定だからだ。二人とも文句はない。文句があったのは体の方で、商売女に通い詰める愚行は犯せない。水商売が裏社会と通じていることくらい誰でも知っている。葵も葛も出来るだけ自分自身の情報は秘匿したい立場であるから、さぁ困った、熱は溜まるばかりだ、どうする。そこで出た妥協案がこうして互いの体をかわるがわる使用し共有することだった。今回は葵が受け入れたが葛が受け身の時もある。立ち位置によって体力の消耗は違うらしくて葵は腰に負担をかけたくないので寝台に寝そべったままだ。うろうろ歩いて腰砕けては困る。突っ込むだけの葛ははまだ余力でもあるのか、窓の外をじっと眺めたまま動かない。彫像のようだ。寝そべった葵が茫洋とそう思った。鍛えられた葛の胸部や腹部の丸みはけして弛緩とは連動しない。明らかに戦闘訓練を受けたもののそれだった。
好きだと言ったらオチるかな。好きだと言った葵に葛は表情はおろか眉筋一つ動かさずに俺も好きだと返事をよこした。表層だけ見れば相思相愛である。だから葵はためしに網を張って見た。好きだよ好きだよ好きだよ好きだよ? 何度も何度も紡ぐそれは葵が自身に言い聞かせるかのように。堕ちてこい。葵は知っている。生きていくために綺麗でいることはとても大変であることを。
「なーなに見てるのー? なんか美味そうな菓子屋でもあった?」
ほら振り向く。葛は良くも悪くも直線的だ。好悪も善悪も可不可も全てにおいて曖昧さを排除している。
「いや……この明かりはどこをどう反射してくるのかと思ってな」
葛の黒曜石が潤んだまま天井に揺らいで射す広告灯の明かりをみる。天井は一部分丸くすり硝子のようにそこだけけばけばしく色を変えた。
「ベッドに射したらなんだかストリップの舞台みたいだな」
カタカタと笑う葵に葛は苦い顔をする。腰に毛布をまとわりつけただけの葵の脚がぴこぴこ跳ねる。葛の手がそっと葵の膝を抑える。寝台が葛の重みにギシリと鳴った。口づけるように近いそれに葵は自分から吸いついた。舌を絡ませ互いに食みながら何度も唇を吸った。
「オレのこと好き?」
「好きだ。お前は俺のことを好いているか?」
「もちろん」
くふん、と葵は悪戯猫のように口の端を吊り上げて笑んだ。
「桂花酒」
幌が海風を孕んで膨らんだ。店の主は無造作に並べられ標もない壜を一本引き抜くと手を出した。葵は規定の料金を払い壜を受け取る。葵は壜をぶら下げて歩いたまま路地裏を行く。運河沿いの細い橋を渡って人気が無くなったあたりで、葵は壁の突起を使って器用に壜の栓を抜いた。ぷんと鼻をつく香草と強い酒精にくらりとする。だがこれは止められない。悪癖であってもいいと思っている。壜を直接呷りながら葵はその場に座り込んだ。靴先がびしゃりと汚水に浸かる。酒精の威力は抜群でそんなことは些細に思えた。洗浄の手間を手間とも思えない。
「哥さん、いい顔してるな、売ってんのか?」
見知らぬ男だ。葵は自らタイを解き、釦を外さず引き裂くようにシャツの前を開けて頸筋や胸部をあらわにする。それはこの界隈での流儀だ。男が屈んで葵の上に覆いかぶさってくる。沐浴さえもしていない饐えた臭いが鼻についた。
「哥さん、風呂に入れよ、くさいぜ」
「一仕事終えた後だからな。お前さんと入ってやってもいいぜ」
刹那、男の体が水平に吹っ飛んだ。
脇腹へもろに痛打を喰らった男は激しく噎せ帰って嘔吐いている。靴先をめり込ませたのは葛だ。こんな路地裏でも黒の仕立ての上着と白いシャツ、臙脂のタイを締めている。
「悪いがこれの先客は俺だ。諦めてもらおう」
「な、んで」
葵は茫然と葛を見た。葛に気圧されたのか男はそそくさと路地に消えていった。
「俺はお前が好きだと言っただろう」
「だからってなんでこんなところにいるんだよ! オレは黙って」
「俺が路地裏に踏み込んだこともない世間知らずに見えていたならお前は全ての認識を疑ってかかるべきだな」
葛はあっさりと葵の落ち度と甘さを指摘する。淡々としている癖につけつけと遠慮もない。
葛の口元がふぅわりと微笑む。怜悧な印象は和らいで富裕層の御子息と言ったふうである。
「お前が俺に言った好きは嘘なのだろう」
「――……え、な――んで、…」
「俺の好きも嘘だからだ」
葵の動きが止まった。う、そ? うそ。嘘嘘嘘嘘嘘。身動きの取れない葵の元へ葛は外套の裾を翻して膝をついた。その表情はいつものものだ。だからこそ偽りはない。葵の脳裏には騙されたことしか判らず、ましてどう対応したら良いかなど見当もつかなかった。だが葛ばかりは責められない。葵だって、葛に好きだよと嘘を囁き続けてきたのだから。だからこそ判らなくなる。なにが嘘で何が本当で、葛は結局、オレのことどう思っていたの。
「か、ずら。オレのこと、嫌い?」
「嫌いではない」
「好き?」
「好きではない」
ぱ、りん。葵の内側で硝子が砕けた。最後まで自我を保っていた何かが毀れたことだけは判った。
「だが、お前の罠にはまっているのは愉しかったが」
きょろりと目を上げる葵はむやみに桂花酒を呷った。葛は止めもしない。琥珀に色づいた液体は見る見る葵の中へ消えていく。潮風になぶられた石畳はざらざらと突起が皮膚を擦った。
「お前が俺のことを考えて俺を嵌めるためだけに俺のことを考えているのかと思うと、それはそれでなかなか楽しかったが」
葛の口の端が吊りあがった。紅い唇のその動きは蠱惑的だ。感情を表に出さない葛にしては珍しい。そんな些細で愛らしい失態を誘えるなら路地裏も悪くはないと葵はなんとなく思った。
好きだと言って微笑みあい睦みあう。全てが嘘であってそれでも葛は、葵を叱責も殴打もしなかった。葵もまた、嘘だと言った葛を責めたりぶちのめしたりしたいとは思わなくなっている。酒精の所為かと思うほど思考がとろけている。葵は今なら葛のいうことを何でも聞いてしまいそうだと思った。死ねと言われたら運河に身を投げるし殺せと言われれば返り血さえも浴びることを愉悦とするだろう。
「俺もお前を罠にはめたつもりでいたんだがな。俺の好きはお前には響かなかったか」
「――ッひ、響いたから今困ってんじゃないか! 葛がオレのこと好きじゃないって、オレだって葛なんか好きじゃない」
「ならば問題はないか」
ぼろぼろと涙があふれた。そうだよ好きじゃない、そう思うたびに葵の涙腺は崩壊して体中が痛かった。葛を抱いた夜も抱かれた夜も忘れられないのに感情だけが置き去りにされていて葵はもうどうしたら良いか判らない。
ぐずぐずと洟まで詰まらせる葵に葛がクックッと笑った。
「ほら、お前はすぐこれだ。閨でもそうだ。どうしたらいいか判らないとすぐに泣いて」
好きか嫌いかも、判らないのか?
「お前を罠にはめて笑ってやろうって思ってたんだよ! なのに、こんなの、お前までオレのこと」
葵は壜を放り出して両手で目元を覆った。俯くと洟や涙が垂れてますます情けない。
嫌いなら嫌いって、言ってよ!
「上出来だ。上手く嵌まってくれたな。俺からお前は逃げられん」
泣き顔の葵が葛を見た。
「俺に好きだと嘘をしかけたお前を本気にさせたかったんだよ」
涙と洟に塗れた葵の唇を葛の朱唇は躊躇せずに吸いついた。
結局ね、君に振り向いて欲しいだけだと思うんだ
《了》